三菱グループの創業者「岩崎弥太郎」の波乱万丈な人生

三菱グループと言えば日本を代表する大企業グループです。その創始者である岩崎弥太郎については興味を持つ人もいるのですが、幼い頃から優れた学問の才能を見せた人物ですが、決して平坦な道を歩んでいたわけではありません。今回はそんな岩崎弥太郎の波乱万丈な人生について、説明したいと思います。

投獄されたことをきっかけに商業の道へ

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岩崎弥太郎は1834年、当時の土佐国、現在の高知県安芸市に生まれました。地下浪人(じげろうにん)と呼ばれる土佐における武士階級の家の長男ですが、下級の身分で裕福ではありませんでした。幼い頃から文学の優れた才能を見せており、その実力は土佐藩主に漢詩を奏上し、褒美を賜ったほどと言われています。そのため21歳になると、学問の世界で身を立てるために江戸へ遊学することになります。
しかし同年の頃、父親である岩崎弥次郎が喧嘩騒動で投獄、その知らせを受けて帰国した岩崎弥太郎は、あまりに強くその無実を激しく訴えたことから、父親と同様に投獄されてしまいます。ところがその獄中において、同じ独房に入れられた商人から、算術や商法の基礎を教えてもらうことができ、このことが後々の商業界での目覚ましい活躍を見せる土台となったと言われています。
その後、出身の村から追放された弥太郎は、吉田東洋と出会ってその教えを請います。更には、のちに政界における著名人にして大臣まで務めた後藤象二郎の下で、その才能を発揮するようになりました。貿易港のある長崎において設立された土佐商会に派遣された弥太郎は、そこで大いに腕を振るったのです。

暗殺や投獄が横行する幕末期、あの大企業の原点が誕生

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順風満帆に見える弥太郎の経歴ですが、この頃、日本は国家としての在り方に問題が生じ、様々な混乱を招いていました。出獄後に師と仰いだ吉田東洋は政治的対立により暗殺され、その犯人を探索することになった弥太郎は、手続き上の不備で九死に一生を得ましたが、探索の任を受けていた同僚は、吉田東洋と同じく暗殺されています。
激動の時代の中、弥太郎は長崎の土佐商会で貿易の仕事を行います。この時、あの坂本龍馬とも酒を酌み交わしたと言われており、世界を見据えた慧眼の持ち主だったことがうかがえます。弥太郎はこの長崎での経験や人脈をもとに、1869年、大阪にて自ら海運業を始めます。設立当初は九十九商会(つくもしょうかい)という名称でしたが、1873年に三菱商会に改称します。そして、のちに郵便汽船三菱会社となるこの商会のシンボルマークとして、岩崎家の家紋と土佐藩主山内家の家紋を組み合わせた独自のマークを制作します。現代日本においても広く知られるあのスリーダイヤ、三菱グループのシンボルマークは、なんと1870年代に考案されたものなのでした。三菱商会は出自を差別しないという新しい企業という、新しい時代の先駆けとして成長をし始めます。

東洋の海上王が残した偉業

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後藤象二郎を始めとする政界の大物とつながりのあった弥太郎は、その手腕をいかんなく発揮します。三菱商会は当時、海運業でトップを独占していた日本国郵便汽船会社に対抗して事業を拡大していきます。そして海外の海運企業が断ったことから担い手に困っていた軍事輸送業務に着手。政府直轄の大仕事を受注することで、大きな利益と信頼を得ることに成功します。弥太郎は得た利益を鉱山や金融事業などへ投資を行いました。この頃弥太郎は、東洋の海上王という異名とともに国を超えて称賛されるほどの大商人にまで成長していました。
しかし、海運事業を一商会が独占していることに対して批判を浴びます。やがて弥太郎の後援者ともいえる大久保利通や大隈重信がいなくなり、それまでくすぶっていた反三菱勢力が手を組み、1882年に共同運輸会社を設立します。これは熾烈な運賃の値下げ競争を招き、弥太郎はその戦いの中においても様々な方策を打ち出しましたが、戦いが集結する前の1885年に病死してしまいます。
しかし、彼が設立した三菱商会は百年の時を超えてなお、日本を代表する企業グループとしてあります。後を継いだ岩崎弥之助が1884年に造船業を請け負う三菱造船を設立。造船業に加えて電気や航空機を手掛ける三菱重工へと変わり、そこから三菱自動車が独立します。弥太郎が様々な新事業に絶えず投資を行い、優れた経営手腕を振るったからこそ、今我々が親しむ三菱の自動車があるのです。