現代表取締役会長兼CEO、益子修氏の功績に迫る

三菱自動車は、平成12年と16年に大規模リコール隠しが発覚し、ダイムラー・クライスラー(現ダイムラー)に支援を打ち切られ、深刻な経営危機に陥りました。益子修氏が社長に就任したのはそんな最悪の時期である平成17年でした。益子氏はどのような戦略を持って三菱自動車を再建へと導いたのでしょうか。

強い向かい風が吹く状況での社長就任

5940621114_58bf148484_z
益子氏は昭和47年早稲田大学経済学部卒業後、三菱自動車に入社し自動車車輌部に配属されました。その後平成元年第二部輸出リーダー、平成3年第一部韓国チームリーダー、平成4年第三部インドネシアチームリーダー、平成10年インドネシア現地責任者などを経て、平成15年執行役員自動車事業本部長、平成16年には常務取締役となり、翌年平成17年に取締役社長に就任しました。社長となった益子氏は、三菱重工・三菱商事・三菱東京UFJ銀行などの三菱グループ各社に4000億円に上る優先株を引き受けてもらうなど支援を受けて再建を進め、翌年には黒字を達成しました。日本で平成17年に、米国で翌年に発売したアウトランダーや平成19年に日本で発売したデリカ:5の売り上げも好調で、当時の円安も追い風になりました。何とか体制を整え、平成19年度には過去最高益を出しますが、その翌年にはリーマンショックでその後円高が続き、平成23年には東日本大震災、追い打ちを掛けるようにタイの洪水でミラージュの工場建設が止まってしまうという災難に見舞われるのでした。それでも益子氏は、再建に向けて次々と戦略を打ち立てていくのです。

座右の銘「為せば成る」

zayuunomei
益子氏の座右の銘は「為せば成る」。大変な時こそ社会が変化を求めている。会社も車も大きく変わるきっかけ。前向きに考えればいいという気持ちを持ち、コスト低減活動、各地域に新型車を投入することで販売の勢いを維持、国内の連結販売会社を統合し業務を効率化、北米での広告宣伝活動、欧米ではロシア・ウクライナなど成長市場での一層の拡販、そして新興国市場に狙いを定めると、タイ・中国に工場を建設し、この工場建設も収益に繋がりました。このように、各地域に適した事業計画を推し進め、赤字だった先進国の工場に関しては、平成20年にオーストラリアの工場を閉め、平成24年にはオランダの工場も手放しました。こうして益子氏が打ち出す戦略により、低迷していた業績は回復の一途を辿っていくのです。また、益子氏は社長に就任してからわずか4カ月後に電気自動車の本格的な開発にゴーサインを出しています。電気自動車というと日産のイメージがある方も少なくないと思いますが、電気自動車の先駆けは三菱自動車なのです。ハイブリッドを追いかけてもトヨタには追いつけないと思った益子氏は、新しい技術に取り組んだ方が良いと考え、自らの判断で開発と販売を決断したのです。

とどまることを知らない益子社長の新戦略・新制度

16226019243_ee4222512b_z
平成26年度には当期純利益が過去最高となり、長年の課題であった優先株の処理も片付き、復配の目処も立ち、再生に一区切りがついた所でさらなる新体制を実行させます。同年、自身を取締役社長兼CEOとし、相川哲郎氏を取締役社長兼COOに就任させました。CEOとは、経営戦略・経営方針で長期計画を策定する役割、COOとは会社の方針・戦略を効率的かつ確実に実行する役割で、この先の自動車業界の競争に勝ち残るためにこの制度を取り入れました。益子氏は、今後の課題は商品力強化が重要であるとし、物作り強化を確実に実行するために相川氏が必要な人材であると考えたのです。また益子氏は、これからの車は環境へも配慮していかなければならないとした上で、SUV・4WDを得意としてきた三菱自動車の走ることへのこだわりも捨ててはいけないと考えています。得意分野を捨てるのではなく、走りと丈夫という点は大事にし、電気技術を積極的に使い、環境と車の魅力を融合させたいと理想の形を描いているのです。「会社が大変な時に辞めた人、辛い思いをした人がいっぱいいることを忘れちゃダメ、そういう人達の気持ちを晴らすのが仕事。」という気持ちで三菱自動車を導いてきた益子氏ですが、今後も東アジアでの成長を加速させることや、インドネシア新工場の平成27年稼動に向けての計画、合併についてなど、課題がまだまだあり、三菱自動車の今後の動向から目が離せません。